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2004テニアンの旅・その2   

【3日目・27日(月)】

朝早起きをして散歩に出かけた。8年前と同じように。

島でひときわ目立つ教会。
クリスマスの暗い時間帯には鐘楼が
イルミネーションで浮かび上がって
いた。









散歩中に見かけたもの。
バナナがふつうに生えてた。
大きなバナナの花があった。
日本では温室になっている植物園の
熱帯ゾーンでしか見かけないので、
感動的だった。






頭の上の木々の枝からスズメに似た
鳥の声が聞こえた。
そちらに目をやると、白くかわいい
鳥がたくさん留まっていた。




この日はテニアンに住んでいる日本人の案内で
島の北部方面へ出かけた。8年前にも行ったが、
その後の戦跡はどうなってるかも興味があった。

旧日本軍司令部跡は老朽化が進んでおり、コンクリート壁が
崩れてしまい、前に訪れた時には入れた1階部分も立入禁止
となっていた。







この旅の中で8年前からもっとも変わっていたもの。それが原爆搭載地点。
まず第一にこのようなガラス張りのゲージが作られ、爆弾を搭載する時に使った油圧シリンダーの跡が
外から見られる様になっていた。話しでは、半年前に爆弾搭載機を操縦し、爆弾を投下した元パイロット
を招いて開かれたアメリカの「平和」記念式典があってこのようなゲージが作られたとのことだ。
それよりも大きく変わっていたもの、それはなんと位置関係。
それまで約60年間定められていた広島、長崎に投下された爆弾を積み込んだとされる地点が
それぞれ入れ替わっていたということだ。
元パイロットの話と、ゲージ建設に検証のため地面を掘ったときに出てきた物証から60年目にしてわかった
もので、まったくお粗末な話である。ちなみに上の写真は長崎に投下された水爆搭載地点(Bomb Pit 2)
で、前回は広島のものとされていた側である。(私の最初のHP「テニアン旅行記」に記されているものも
当時説明のあった時のままの記述で、それも今では逆であったということになる)




こちらが長い間長崎のものとされていた側の、実際には広島へ
投下された原爆を搭載した場所(Bomb Pit 1)である。

なお、この平和祈念式典からまもなく元パイロットは死去した。
今でも「平和をもたらした」ということで彼のための花環が手向けられている。





広島、長崎それぞれに投下された爆弾について
記された碑文をご参照ください。写真をクリックすると
大きな画面になります。

広島の碑文には、1945年8月5日夕刻に機体に積み込み、
翌日の午前2時45分(現地時刻)に離陸したという記述が
読みとれる。

一方長崎の碑文には、天皇は8月10日に太平洋戦争の終結を
内閣の同意なしで決断したとされている。






センボンギ


  現地在住の方から教えてくださった木。いっぱい木の周りに細い木が生えている様に見えるが、
  幹や枝から小枝が根のように地面に向いて延びているというたいへん珍しいもの。テニアンでは
  これ1本だけしか発見されていない。気味悪がって地元のチャモロ人はオバケの木と呼んでいるが、
  島内では唯一、焼け野原となった戦争中を生き抜いた島の歴史を見届けてきた木だ。



かつてこの地が日本領であった時代がしのばれる
神社の跡。「羅宗神社」と読むことができる。

この時は腰までの高さの草が茂っていて、かき分けながら
崖となっている高台のある奥の部分まで行ってみた。









世界で一番辛いトウガラシといえば
お菓子などで有名となったハバネロ
(メキシコ産)があるが、テニアンにも
テニアンペッパーというとても辛いもの
がある。一かじりで口の中は大火事!








最後の砦として、テニアンを死守していた
旧日本軍の予想に反して米軍が上陸した
チュルビーチ。新しい案内板ができていた。
日本語と英語でその戦闘の様子が記され
ている。その日から60年、今ではこの砂浜
に散らばる星の砂の様におだやかな時が
流れている。











これが島の南北に延びるブロードウェイ。
爆弾を搭載地点まで運び込むために
米軍が作った道路。
初めて島を訪れた時には、空港から村まで
いい道路がついているという感じだったが、
そんな説明を聞くと、我々日本人にとっては
広島、長崎の人々を死に追いやった運命の
道路として、揺られる車の中で複雑な心境に
なった。


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